恋人の喧嘩と夫婦の喧嘩について、(1)

あるいは口論の原因と解決の原理とは何か。


今回は、恋人同士の喧嘩の原因や男女夫婦喧嘩、親子や家族の喧嘩の原因の話をしたい。

もちろんこの話は、人々の愛と幸せを育むために話すのであり、男女の関係を嘆こうだとか、話を楽しもうだとか、おもしろがろうというのではない。

男女や夫婦は喧嘩を繰り返し夫婦不和となり、やがて心離れて身体も離れてセックスレスとなたりしている。

夫婦が不和になれば家族全体に冷たい風が吹き、暗い家庭ができあがり、子どもたちに不幸を残すことになる。



男女夫婦が互いに傷つけ合い、男女が共に寂しさを抱え、こういった電脳世界で出会っても、その男女もまたその付き合いが長ければ長いほど喧嘩をすることになるのだろう。

人間とはそういったモノだ。

そもそも男女と人々の喧嘩が起きるのは、その喧嘩となる問題原因を正しく見ることができなかったり、その解決方法を知らないことで、喧嘩という「状態」に陥るのであろう。

あるいはそのような原理で、喧嘩という「人間現象」や「社会現象」を起こしているのだろうと思うのだ。


人々は、喧嘩となる問題と解決がどこにあるのかを知らないため、また人間がどの地点で意見の一致が得られるのかを知らないため、

問題点とそれらの意見の違いを調整したり、歩み寄ろうなどとも考えなくなり、全てを、自分の好き嫌いで(つまり自己中で)決めようとしているのである。

多くの人々は、好き嫌い(我が儘・自己中・独裁的・独善的・主観主義)で生きているから、自分の主情や主意だとか、あるいは自分の考えや意見を譲らないという、強情で捻くれた人格となりやすい。

しかしそのうちでも多くの人は、強情と捻くれでは他人から嫌われるので、それを隠してほどほどに自粛しているのだが、切羽詰まれば、また相手が近しい者なら、その我が儘の本質を現わにする。

だから、そういう人(人のほとんど)に、いくら道理ある説得しても、科学的学術的な説明をしても、それを受け入れようとはしないで、相手に対して「貴方は言葉巧みに言いくるめているのだ」などと自分勝手な誤解して、自分勝手な決めつけをする、そうして自分の間違った意見を改めないようになりがちなのだ。



そこで一々の話をすると論理学や哲学や科学論などを解説しなければならないが、何よりも現実に生きている人間の話だから、まずは人間や恋人や夫婦の意見が違うときに、
口論している議論を煎じつめていけば、問題解決の方策は誰でもが納得する「科学的学術的に正しい地点」以外にはないし、その地点にしか二人(人々)の意見の「一致点はない」のだということを、覚えていてほしいと思う。

そのことわかりやすく例えでいえば、1+1=2という真実は、算数学的に正しいことだろ。

それは正解なのだから「誰でも認めざるをえないことだ」ということを言っているのだ。

その「誰でも認めざるをえない正しさ」は、宗教観や人生観が違っても、肌の色が違っても、男女の性別が違っても、国や時代が違っても、好き嫌いが違っていても、
「自分が納得出来るか出来ないか」などの様々な立場の違いも、様々な価値観の違いにも、それらの一切に関係なく、科学的学問的真実と正解(価値観)は誰もが受け入れなくてはならない真実だ、ということだ。

そういう意味だ。

議論を煎じつめていけば、誰でもが納得する「科学的学術的に正しい地点」以外には、問題解決の方策はないし、
これを覚えておくと、例えばこれを読む貴女のお子さんにもこのことを伝えるなら、恋人との喧嘩や、夫婦喧嘩も、意見の違いについて一緒に勉強してみよう、一緒に勉強しなければということになり、一段と二人で成長し合う関係になるのだろう。

そうして互いを理解し合い、尊敬しあい、その地点で結ばれていくことになるから、これは愛を育む上で大切な原理なのだ。

さらにまた、私たちが自分の中で「悩み」とか「苦悩」とかいう状態に陥っているときにも、これと同じように自分の中で他者を設けて自問自答を繰り返すものだろうが、

それらの答えも、自問自答の議論を煎じつめていけば、誰でもが納得する「科学的学術的に正しい地点」以外には問題原因とその解決策はないということでもあるのだ。

そもそも悩みとか苦悩とは、自分の頭で科学的学術的な道理(誰でもが納得する理がある道のこと)を見いだせない状態のことを、悩みとか苦悩と言うのだろう。考えを冷静に進められない状態に陥っている事を言うのだ。



さて、これを読む貴女は、これまで様ざまな口論と喧嘩をしてきただろう。

兄弟喧嘩、友達喧嘩、恋人との喧嘩、親子喧嘩、仕事上と一般社会での人間関係での喧嘩、そういった様々な喧嘩を経験してきただろし、喧嘩内容も様々だろう。それらの様々を思い返し結論を求めてみるといい。

だが、それらの問題とよばれる一切の原因と解決策は、煎じ詰めていくなら、道理ある学問的解答(原理や構造や関係法則性とかの)にいきついているはずであろう。

人類はそのために哲学も論理学も、その他の一切の学問活動を進めてきたのだし、いまもそうしているのだろう。(ただし、本当の学問ならそうあるということ)

この地点以外には、人々と人類の意見と価値観の一致点はなくて、その一致点を見つけて、いくらでも意見対立するしかないのだ。

何しろ、それらが無ければ一致点を知らないし、その地点が無いのだからだ。



しかし、私たちの身の回りでも、人々より賢い者もいるし、特に頭脳明晰な学者などという者たちもいる。

彼らは自分が愚かであることに気付かない真の愚かモノだから、新聞やテレビ、文学作品や、各自勝手な主観と些末な知識を詰め込んだ書物の中に解答があると信じ込んでいる。

そうして自分が虚像を信じ込んでいるのだということさえ気付かない、真の愚かモノとなっているため、自分でも些末な知識と理論を述べたり記述したりしているのである。
こうして、現実社会は、主観の学問ばかりとなり、有用な本当の学問(学問のための学問もあるが、実用の学問のために下支え下準備としてある学問なのだ)が見えなくなっているのだ。

悪貨は良貨を駆逐するものなので、現在世間に出回っている学問は、ほとんどがそういった役立たない「学問」なのだ。