戦争の惨さーむごさ

死なないであ-よかった

自衛隊員は全滅を覚悟した。


以下はあるサイトにあった議論の様子をコピーさせてもらったものです。

なかなか参考になる意見が掲載さていましたので、皆さんにもご紹介しようと思い転載させてもらうことににました。

まず始めに議論のネタにしていたものが以下の北海道新聞の記事です。


「全隊員、武器を携行せよ」と隊長!部隊全滅を覚悟!

 「ドーン」という音とともに砲弾が付近に落ちると、衝撃で体が宙に浮く。「全隊員、武器を携行せよ」と隊長。「部隊全滅」を覚悟した。銃撃戦に巻き込まれる恐れがあった。

 南スーダンについての安倍政府の証言はウソだった。
 「国民に真実知ってほしい」ー。

 自衛隊宿営地近くで起きた激しい銃撃戦の生々しい実態を北海道新聞(23日付け)が伝えた。


 政府が「武力紛争ではない」と説明していた南スーダンでの大規模戦闘時、国連平和維持活動(PKO)に参加していた陸上自衛隊は、武器携行命令が出るほど危険な状況に陥っていたことが判明した。

 公表された当時の日報は大半が黒塗り。死も覚悟したという極限状態に置かれた派遣隊員は「国民に真実を知ってほしい」と話した。

 南スーダンの独立5年を翌日に控えた2016年7月8日。

 日が沈んだころ、首都ジュバの宿営地で小銃の発射音が断続的に聞こえるようになった。普段よりも音の間隔が短い。銃声は日常的だが「いつもと違う」。その予感が的中する。

 発射音は政府軍と反政府勢力の戦闘によるものだった。その後、宿営地があるPKO施設に避難民が次々となだれ込んできた。攻撃ヘリコプターや戦車も目撃され警備レベルは一気に上がった。

 宿営地外での活動は中止になり、隊員はみな居住用建物に待機。各部屋には内線電話やトランシーバーが配備されていたが、部隊内での情報共有はできておらず「何が起きているのか分からず、本当に怖かった」。

 10日には宿営地近くのビルで激しい銃撃戦が始まる。「全隊員、武器を携行せよ」。隊長の指示で武器庫の扉が開く。隊員も防弾チョッキとヘルメットを身に着け、実弾を込めた小銃を握りしめた。「死ぬかもしれない」。銃声が響くと床に伏せ、手で頭を覆う。

 わずかな隙を見て、宿営地内の退避用のコンテナに身を寄せた。「ドーン」という音とともに砲弾が付近に落ちると、衝撃で体が宙に浮く。

 宿営地がある施設内には他国軍もいる。それでも「政府軍や反政府勢力が宿営地内に入ってくれば(巻き込まれて)部隊は全滅する」と覚悟した。

 政府は7月7〜12日の日報を昨年2月に公表したが、読み取れるのは「ビル一帯で戦車を含む銃撃戦が生起。日没まで戦闘継続」「ビル付近に砲弾落下」といった簡単な事実関係のみ。部隊の警備態勢や対応が記載されているとみられる部分は黒く塗りつぶされた。

 現地での戦闘が収まり始めた12日、東京・市谷の防衛省中谷元・防衛相(当時)が記者と向き合っていた。「現在のところ隊員は安全」「武力紛争が発生したとは考えていない」。メモを繰り返し読み上げた。

 しかし、派遣隊員の証言から浮かび上がるのは正反対の「真実」。PKO参加5原則は崩壊していたのではないか―。隊員は「そこは考えないようにしている。それを考えだすと何もできなくなる」と複雑な胸の内を明かした。

 宿営地で何が起きて、自分たちが何を思ったのか国民に全く伝わっていないと考えている。「自衛隊は国民や、その代表である政治家が決めたことを信じてやるだけの組織。そのためにも、国民には本当のことを知ってほしい」。言葉を選びながら、そう訴えた。 

(以上 北海道新聞の記事)






この記事をネタに以下の議論をしていたわけです。


Aの意見  何がどうあれ、軍隊が“戦場”で“自己判断”を行う事は間違いではない。

軍隊を自衛隊と呼ぼうが、戦場を“PKOの非戦闘地域”と呼ぼうが、だ。

問題の第一は、中途半端な形で若者を“死地”に赴かせた政府の判断である。

第二に、事後の反省として、当地の現場指揮官の判断が妥当であったかどうか、
では今後どうせねばならないか、それを開かれた場で論議すること、だ。

こんな当たり前なことが、何故できない、安倍政権っ!!!!!




Bの意見    《Aの方の 「何がどうあれ、軍隊が“戦場”で“自己判断”を行う事は間違いではない。」

という意見、これは間違いですよ。

軍隊がそん小隊中隊(大隊でも)「戦闘情勢」で勝手な判断を許していたら、自衛隊(軍隊)はもっと膨大な被害を受けることになります。

そのことを理解してもらうためには、まず「戦争」は「戦闘」とはイコールではないのだということです。

それらは概念が別なことなのです。

戦争を指揮する者(司令部)からすると、大隊でも中隊でもましては小隊ならなおさら、その小隊を全滅させるという判断で、「戦闘」の場面では小隊に敵と徹底抗戦させて、敵をそこに引き付けておいて、その間に敵大隊を包囲して一斉に攻撃を仕掛けるという戦法(戦術)を取る場合もあるのです。

そんな場合。全滅するまで「徹底抗戦」しないで小隊長や中隊長の勝手な判断で、隊員に「撤退」命令出したら司令部の作戦(戦術・戦略==戦術と戦略も概念が違います。)は台無しになってしまうのです。

例えば、それまで自軍の大隊を隠密裏に敵陣を鶴翼陣形(鶴が両方の翼を広げた形)に取り囲む作戦んでいた場合、その戦費・軍備も使ったことが台無しになったり、反対に戦闘場面で小隊長の勝手な判断で撤退したら敵側は、「相手は攻める作戦ではないのだな」と知ってしまい、自軍が鶴翼陣形が整のわないうちに敵の主力隊に中央突破されたら、鶴翼陣形で横に伸びきった部隊(小隊)は少員数なので一片に撃破され、背走する小隊に追い討ちを掛けられてしまい、連鎖的に壊滅させられたり軍備(戦車や装甲車、輸送車など)もやられたりして、大損害を蒙ることになってしまう(場合の方が多い。中央突破の陣形も戦闘の戦術の一つですから)のです。

戦争と言うものは全員死亡が分かっていて敵を攻めさせるという、冷酷なものです。
全滅覚悟で自分たちが優位の戦闘場面を作らなければならないのでから。

自衛隊員も軍人もそのつもりでいなければならないのです。
上層部の判断で捨石にされるのは当然なことっと、覚悟しておかなければならないのです。

A の方は、

命に関わる戦争のことを語ったたり判断したりする場合は、目先の判断や、命を大切にしようと(考えていることは分かりますが。)した判断を下すことが、大間違いとなる場合があることを考えて、視野を大きくもって、判断を下すようにして頂くことをお願いしたいと思います。

戦争は馬鹿らしいものです。

戦争は、戦争をしないで「戦わずして勝つ」戦略が戦争論の第一テーゼ(命題)です。

ですから戦争というものを視野を広げて見たり考えたりすると、政治・外交が洗練していなければ、自衛隊や軍隊であれ防衛も戦争もヘッタクレないのです。

今の日本はすでに根本的な戦争に負けている状態なのです。すでに自衛戦(防衛戦)で敗北していることが確定されているのです。

グダ愚ダな内閣・政府(政治家と官僚と省庁)なのですから、政治戦(戦争)という根本的戦争で負けが確定しているのです。「信が無ければ政治は建たず」の教え通り、安部政権も官僚も嘘つきと隠蔽をやっているのですから国民は信用していないのです。

経済戦争という戦争でも、新自由主義郵政民営化というので郵政保有資金(世界で1位の保有資金率)を外資に売り飛ばし、TPPでアメリカ国際金融資本と企業に国自体(農業も医療と医療保険も国会の立法権も一切合財)を売り飛ばそうとしているのですから、負けが確定の、敗退につぐ敗退を続けているのです。

法体制や規律戦線ではどうでしょう。司法界もテイタラク、規律もなく官僚や軍人が勝手なことをやって(公文書や戦陣日報隠し)をやっていても役人全員(言い過ぎですが)に正義感なく、規律を守ろうという決心もなく、不正を注意したり止めさせようとはしていなかったのです。

人づくり戦争、つまり教育戦争でも負けているのです。イジメや「不登校」、試験競争と受験競争で付かれ切っている青少年たち。派遣社員で希望を失っている青壮年。

安月給で結婚も出産も出来ない。保育園も幼稚園も学童クラブも不足し、それを改善したり増やす気もない状態です。老人社会化と国家状態。

国民人口も減少させたままです。戦争できる国民状態はないでしょう。
(国民性作りは==ナポレオンが史上始めて皆兵制《国民・当時は農民が多数》を取ったことで、近接外国の王侯貴族の軍人を寄り集めた軍隊を打ち負かすのは人数の過多からいっても当然な結果だったのです。)

ほかにも他国との競争(戦い)分野がたくさんありますが、上に挙げた分だけでも「戦わずして敗北」が確定しているのです。そのような状況は、自虐的だとか、そういうのは好きだ嫌いだとか、認めるか認めないかに関係なく、客観的事実でしょう。

ですから無知蒙昧な者たちが、
自衛隊・自衛・9条憲法・軍備・核兵器・日本の技術は最高・中国が・尖閣が・平和ボケ・戦争反対や改憲反対を言っているやつら・リベラル左翼のお花畑・などなど好き勝手ことを言ってますが、上のようなことをまったく知らないで言ってるのですから、「ホウホウ、元気のいい青少年だな〜」ぐらいに思ってあげて、このサイトでは(もう一度言いますがこのサイトでは)無視していたほうが言いと思いますよ。

今回ばかりはAの方が言ってるので、このサイト常連で有名な方が言ってることなので、気になって話しただけですので、その辺はご理解してもらいたいと思います。

以上がサイトからの転載。



こういうものでしたが、私は、記事がなにせ北海道新聞が報道したものということなので、皆さんにも知ってもらいたいと思いました。

まや議論が、特にBの方の意見が参考になるものなので、皆さんにもご紹介したいと思ったわけです。

私からすれば、ネット世界で傍若無人に暴れまくっている所謂ネットウヨとか、安部首相応援隊とかの人々を放置しておけという意見には賛成しかねます。

また戦争論についっても賛成しかねる意見もあるのですが、まあ現実のメディアでは聞きなれない意見ですので、参考にはなりました。

まじヤバイ

米国は何をもくろんでいるのだろうか。

つぎのスプートニク日本の記事にあるように、報道内容から見えてくるようにアメリカとそれに追従する有志連合諸国の目論見は
はなはだしく危険なものであることが分かる。

毎回おなじみの「イラン」「イラク」「シリア」「毒ガスを使った」という自作自演(偽旗作)で、戦争を始めてもいいのだ、これは正義の戦争だ、とこじつけ理由て戦争をしかける。

こうして戦争を始めるのです。

下の記事にあるように、イギリスの元ソ連スパイ親子下の記事)の「毒ガス事件」でも、その真相がバレ始めている。だが彼らアメリカとその追従「有志国連合」は戦争開戦をやめようとはしていないようだ。

いま現在その、戦争開戦の危機に直面しているようだ。

スプートニク日本 https://jp.sputniknews.com/








「英ソールズベリーの病院がスクリパリ氏の正確な診断に言及したことは一度もなかった」ロシア大使館

スプートニク日本 2018年04月11日

ロシア大使館の代表者は通信社スプートニクに、英ソールズベリーの病院がロシア軍参謀本部情報総局(GRU)のセルゲイ・スクリパリ元大佐と娘のユリアさんに< style="color:#990000;">化学物質による中毒症状がみられるということを直接確認したことは一度もなかったため、ロシア大使館は英外務省に外交文書を送り、病院の院長には診断を明確にするよう求める書簡を送った、と伝えた。

ソールズベリーの病院長クリスティン・ブランチャード氏は10日、スクリパリ氏と警官のニック・ベイリー氏が、神経剤の影響を受けた後の治療に訪れたと発表した。なお3月16日、同病院の医師の1人、スティーブン・デイビス氏はタイムズ紙に送った手紙で、その日、重い中毒患者(とされる者は=転載者補足)はわずか3人であり、いずれの患者にも神経剤による中毒症状はなかったと伝えた。

大使館代表者は、「デイビス氏の手紙と、ブランチャード氏の3月29日、4月6日及び10日に発表された一連の声明の詳細な分析は、セルゲイ・スクリパリ氏とユリア・スクリパリ氏に化学物資による何らかの中毒症状があり、彼らがまさにその治療を受けているということを病院が直接確認したことは一度もないことを示している。そして今日もブランチャード氏は、全体的にどのような症状が生じるのか、それを通常はどのように治療するかについて抽象的に語っているだけだ。また同時に英外務省は、セルゲイ・スクリパリ氏とユリア・スクリパリ氏が質の高い医療を受けていると我々に言い続けているが、これも具体的なものはない。これを受け、大使館は本日、英国外務省には新たな外交文書を、ブランチャード氏には、原則的に重要な意味を持つこの事柄をもう一度明確にするよう求める書簡をを送った」と語った。

また大使館代表者は、スクリパリ氏がいずれかの治療計画の適用に同意したかどうかも不明のままだと指摘した。






国連安保理 ロシアの決議案も採択できず

国連安全保障理事会では11日、ロシアが提出した化学兵器禁止機関(OPCW)の調査団のシリア派遣を支持する決議案は過半数の9票を獲得できなかった。

ロシアの決議案には安保理常任理事国のロシアと中国、またはエチオピアカザフスタンボリビアが賛同。安保理常任理事国の米国、英国とフランスが反対。棄権は6カ国だった。

先に伝えられたところによると、ロシアは同日、シリアの化学攻撃を調査する新たなメカニズムを提案した米国の国連安保理決議案を封じた。

これより前、西側諸国は、東グータ地区ドゥーマで起きた化学兵器による攻撃をシリア政府によるものと決めつけた声明を表していた。

これに対してロシアは、シリア軍は塩素爆弾を投下したとする情報を否定。ロシア外務省は、シリア軍が有毒物質を使用したとする情報の目的はテロリストを弁護し、外から行われうる武力攻撃を正当化するものとする声明を表した。

ロシア軍参謀本部は3月13日の時点ですでに、東グータ-地区で武装戦闘員らによって、化学兵器使用を脚色した煽動が準備されている事実を公表しており、これが将来、シリア攻撃の口実に使われる可能性があると指摘している。





シリア化学兵器調査メカニズムについての国連安保理投票 ロシア 米発案の決議案に拒否権を発動

スプートニク日本 2018年04月11日 04:44


ロシアは、シリアの化学攻撃を調査する新たなメカニズムを提案した米国の国連安保理決議案を封じた。
米国案は、新たな 独立国際調査機関(UNIMI)のレポートが検討された後、国連安保理は、シリアの化学兵器への国際的な管理を樹立し、これを廃絶する決議2118に対する違反を明らかにし、国連憲章第7章の平和に対する脅威に基づいて措置を講じるというもの。

ロシアは独自の決議案を提出し、安保理に対して東グータ地区へ化学兵器禁止機関の専門家グループの派遣を支持するよう提案したい意向。

英国の国連大使が、シリアの化学兵器調査は独立したものでなければならないため、ロシアには調査を行う資格がないと発言したことは注目に値する。

これより前、西側諸国は、東グータ地区ドゥーマで起きた化学兵器による攻撃をシリア政府によるものと決めつけた声明を表していた。

これに対してロシアは、シリア軍は塩素爆弾を投下したとする情報を否定。ロシア外務省は、シリア軍が有毒物質を使用したとする情報の目的はテロリストを弁護し、外から行われうる武力攻撃を正当化するものとする声明を表した。

ロシア軍参謀本部は3月13日の時点ですでに、東グータ-地区で武装戦闘員らによって、化学兵器使用を脚色した煽動が準備されている事実を公表しており、これが将来、シリア攻撃の口実に使われる可能性があると指摘していた。




米国 空母を旗艦の攻撃船団を地中海へ米海軍の空母「ハリー・S・トルーマン」が率いる攻撃船団が母港のバージニア州から地中海に向けて出帆した。星条旗新聞が報じた。


船団にはミサイル巡洋艦「ノルマンディー」、アーレイ・バークミサイル駆逐艦、フォレスト・シャーマン級ミサイル駆逐艦、ファラガット級ミサイル駆逐艦が入っており、これにジェイソン・ダンハムとザ・サリヴァンズの2隻の駆逐艦が合流している。乗組員の数は合計で6500人近く。

この船団には地中海で独海軍のフリゲートヘッセンが合流するものと見られている。

船団の目的及び課題については現段階では発表されていない。

先に、ウォールストリートジャーナル紙は米国防総省内の消息筋からの情報として、米国の2隻目の駆逐艦が数日内に地中海に到着する可能性があると報じた。

これより前、西側諸国は、東グータ地区ドゥーマで起きた化学兵器による攻撃をシリア政府によるものと決めつけた声明を表していた。これに対してロシアは、シリア軍は塩素爆弾を投下したとする情報を否定。ロシア外務省は、シリア軍が有毒物質を使用したとする情報の目的はテロリストを弁護し、外から行われうる武力攻撃を正当化するものとする声明を表した。

ロシア軍参謀本部は3月13日の時点ですでに、東グータ-地区で武装戦闘員らによって、化学兵器使用を脚色した煽動が準備されている事実を公表しており、これが将来、シリア攻撃の口実に使われる可能性があると指摘していた。





駆逐艦2隻がシリアの方角へ

スプートニク日 本2018年04月10日

ウォールストリートジャーナル紙は米国防総省内の消息筋からの情報として、米国の2隻目の駆逐艦が数日内に地中海に到着する可能性があると報じた。
WSJ紙の消息筋は「米国はミサイル駆逐艦USS「ドナルド・クック」をすでに地中海東部に配備しており、そこからいつ何時もシリアに向けた攻撃が可能だ。(中略) 2隻めのUSSポーターもその場所に数日以内に到着できる」と語っている。

9日、米国の政治雑誌「ワシントン・エグザメナー」は米国防総省内の消息筋からの情報として、駆逐艦USS「ドナルド・クック」が巡航ミサイル「トマホーク」60基を搭載し、キプロスの港を出帆し、シリアの方角へ向かったと報じていた。

トランプ大統領は、シリアの東グータ地区で行われた化学兵器による攻撃はシリア政府によるものと決めつけ、ロシア、イランがシリアのアサド大統領を支援しているとして、これを非難し、2日以内に報復行動の決定をとるとする声明を表している。

シリアでは2011年3月から武力紛争が続いている。

2014年以降、米国主導の66カ国連合がイラクとシリアで対ダーイシュ作戦を行っている。シリアでの作戦は当局の許可なしに行われている。





ロシア国連大使が米国に警告 シリア攻撃なら手痛い結果に
スプートニク日本 2018年04月10日

ロシアのネベンジャ国連大使は、米国はシリアに武力行使をした場合、手痛い目にあうと警告した。

ネベンジャ大使はシリア情勢を話し合う国連安保理会議の場で演説を行い、「しかるべくチャンネルを通して我々はすでに米国側に、シリアの合法的政府の要請でロシア人軍人が駐屯しているにもかかわらず、

この国に対して偽りの口実を設けて武力行為を行った場合、最も手痛い結果になりうると伝えている」と語った。

ネベンジャ大使は西側諸国の政治家らに対し、グローバルな安全保障に挑戦を投げかけるような無鉄砲な欲求を突き付けないよう呼びかけた。大使はこう語った上で、西側の指導者には誰も世界の憲兵の役割を引き受けさせようとはしなかったと指摘した。

ネベンジャ大使は、米英仏はロシアに対して対立路線をしいており、これに「冷戦」時にもなかったような様々な方法を用いていると付け加えた。

これより前、西側諸国は、東グータ地区ドゥーマで起きた化学兵器による攻撃をシリア政府によるものと決めつけた声明を表していた。これに対してロシアは、シリア軍は塩素爆弾を投下したとする情報を否定。

ロシア外務省は、シリア軍が有毒物質を使用したとする情報の目的はテロリストを弁護し、外から行われうる武力攻撃を正当化するものとする声明を表した。

ロシア軍参謀本部は3月13日の時点ですでに、東グータ-地区で武装戦闘員らによって、化学兵器使用を脚色した煽動が準備されている事実を公表しており、これが将来、シリア攻撃の口実に使われる可能性があると指摘していた。









「人間は進歩しない」だって?????

あるブログで次のような引用文を見た。


「私は、人類は進歩しないものだと思っています。進歩しないで変化してゆくものだと思っています。職を求める為に働き、恋に喜び、失恋に泣き、友と語り、嫌な奴と働き乍ら、一人一人は成長してゆきますが、人間そのものはメソポタミアの文明開化以来同じことをくり返しています
 しかし科学は進歩します。日進月歩、昨日のものは無価値です。科学技術の進歩は生活を変えます。革新的な技術の発達の中で、人間は人間全体の発展進歩だと錯覚して、ボケてゆくのです。営々として生きる本来の人間の姿を忘れてゆくのです。」


ブログの主はこの意見に同調的で、現代人への警句ではないかと言っています。



そこで私が感じ思ったことを述べたいと思う。

まず感じたのは、よくある考え方だと思うということだった。
またよく耳にしたり、読んだりする意見だと思った。

まあそれだけ世間に出回っている、いわば俗論というやつではないだろうか。



しかし頭が痛い。いまは21世紀だぞ〜。

このような「理論」の持ち主は、キリスト教原理主義者のように世界と人間は神が創造したのだと信じている人なのだろうか?

それとは違い現代の教育を受けている者は、生物としての人間の始原(アメーバー状態)を知っているだろうし、猿状態から猿人に、さらに類人猿となり人間へと「変化」し「発展」して、現代の文明(器機の発明などによって生み出される生産様式の文化・芸術など)へと発展してきていることを知っているだろう。

従って結論は「人間は変化し発展する」し、そうして「人類と文明は発展する」ということだ。

このような理の当然なこととは反対に、上のような俗論がまことしやかに吹聴され、「そうか〜それは一つの意見だね」などと認め、半分でも容認して信じている状態だからこそ、人類はなかなか発展しないのだろう。

このような考え方が根拠のない俗論や迷信や差別や決め付けなどを生み、人間の考え方を歪めて合理的科学的な考え方をする人類へと進むのを阻むことになっているのだろう。

中世ヨーロッパで神学の迷信と非合理主義と神秘主義が支配していた世紀は 、例えば裁判で争う両者を水中に鎮めて先に苦しくて浮いてきた方だとか、先に死んだ方だとかが神の啓示した罪人だ、などという考え方が支配していた社会と世界でした。

つまり人類史的には人間性が退行し、理性が眠り込む世界(〜14世紀)であったのです。

その人間精神の退廃から抜出すためにルネッサンス人間性人道主義復興運動)が望まれるようになり、キリスト教がヨーロッパ世界を支配る状態を変化させることになっていったのです。

現代人は歴史の教訓を受け止める必要があるのではないでしょうか。
そうでないと現代の退行と頽廃文明から抜出すことはできないっでしょう。






さらに、注意していただきたく補足するなら、

16〜18世紀に近代資本主義発生し、そこから顕在化して現代まで続く「万人の万人に対する闘争」という原理は、欲望充足のために闘争をする人間の動物的本性と動物的意識や精神を生み出すものとなりました。

今後の未来社会で生産性が高度に発達して人間の基本的欲望が保障されるようになると、現在あるような商品を我先に争って自分のモノにする必要性はなくなり、金儲けすることも意味がなくなり、人間の動物的本性と動物的意識や精神、考え方を変えさせることになっていきます。

つまり人間の性格や人格をも変えて、「人間そのものはメソポタミアの文明開化以来同じことをくり返」すのではなくなるのです。

人間活動の目的の基本である金銭欲・物欲・性欲・名声欲さらにその他の生活・労働・余暇・趣味・恋・失恋・喜び・泣き・友・語り・愛・家族・母性・男せい性・女せい性・・・・・たくさんの考え方や 感性・美意識が変り、そこから人間の性質が変化して行き本当の人間性が開花するわけです。

今後AIが爆発的に発展すると、既存の産業ロボットや工作機械、工場生産、自動運転トラック輸送などで、「人間の基本的欲望が保障されるようになる」のも早い(百年とか)かもしれません。


さらに、まだ現在では想像もできないでしょうが、人間の外観さえ変化させるかもしれないのです。

というのも永い人類史では、始原から視て単純な真正細菌という生物状態からアメーバー状態、魚類状態へ、さらに爬虫類のような水陸両棲生物へ、さらに鼠のようなゲ歯類、小型さる、猿・・・・へと人間の姿た形が変化してきたように、現在あるような人間の姿がこれからの未来で変わる可能性もあるということ。

結論 人間は進歩するのであり、人間は進歩しないなどという意見や考えは誤りである。
人類が変化発展するのだから当たり前だけど。

島猫 (id:catpower) さんの「本が売れないのを図。。。。。。


「本が売れないのを図書館のせいにしてはいけない」を読んだのがいけなかった。

http://catpower.hatenablog.com/entry/2017/10/21/190000



「私はまだハテナの全体機能が分かりませ。使えません。(日記とブログは違うんだへー、、何でだ?分からん。)

なのでハテナ事務局から私への個人メールへ「ブックマーク」なるものの案内が再三送られてくるので、毎回クリックして何度も見直してみたのですが携帯用アプリの宣伝ページばかりで、

何がブックマークなのか皆目分からず、普通のブックマークとは違うらしいというぐらいで、使い方が分からないので私には関係ない機能だと思っていました。

ところが今日メールに「本が売れないのを図書館のせいにしてはいけない」というブックマーク記事があるというのを見つけて、この題名からして私が考えていることと同じ意見なのではないだろうかと思いさっそれをクリックして読んでみました。

案の定私と同じ意見だったし、世間では読んだことがない貴重な意見だと思いました。

そこでこのような意見は、本が売れない論、活字離れ論、図書館が原因論、などがありながら、 島猫 (id:catpower) さんの意見のような理論をこれまで見たことも読んだこともなかったので、その旨一筆書こうとおもってコメント欄に書き入れ始めわけです。

そうして途中まで書いたのですが右下の赤いものが動くので、確認するとなんと100文字制限があることを知りました。

しかも途中まで書いたものが、アップされてしまったのかどうかも分からなかったし、確認の操作もできずに、へんな文章を送って嫌がらせのように誤解させるかもしれないな〜と思い、

これを書く羽目になってしまったのです。トホホホホ〜。

まあその前に、第一回目に島猫 (id:catpower) さんの意見と論理を読んだときに、上から目線になりますが直感的にこの方は事実を見渡す力がある方で、しかしながらもう一歩シャキッとしないようなものがあるかな〜と感じたので、そのことを書いてもいいかとチラ思いももしていたので、これを書く事にしました。

なので本題に入る前に、まずこの百文字議論の形式について、思うところを書かなければならないと思います。



現代人はマスメディア(大衆的大学とその教授だとか教科書もふくめた意味)の世論誘導に巻き込まれて、甚だしい錯誤に落ちいり世界と社会を正常に見られない状態になっているのだろうと思うのです。

しかしその自覚はなく、虚構の世界と社会に生きていることを多くの方がしらないでいるのでしょう。

そうして百文字で何か意見でも言えているかのように錯覚してしまい、同類に錯覚している方たちが「議論」しているつもりで、論争に明け暮れる状態になっているのではないでしょうか。

そのことを知っている私は、いつもならそのような形式の「話し合い」を避けて通ることにしっているのです。

(この点についても話ができているかのように錯誤している人々は、話と話し合いが『不可分な意味を持つ』ということも考えたことがないのではないでしょうか。)

何故そういえるかを言語学や論理学的に説明していると本題に行く前に疲れてしまうので、本題の方でも類推できる程度に含意させてみたいと思います。

さて、「図書館が新書を貸し出すから本が売れない」などという議論があるのですが、現代人が物事が見えていないのに、わかったツモリで話すからこういう意見になるのだろうと思うのです。

社会を正眼で見ている者は、それを言う知識人や文化人に対して「ホウホウ、やってるヤッテル」と思って呆れていることでしょう。


そこにある問題はおおよそ2点。

1、の問題

学問としての現代の図書館学が、錯誤理論で成り立っていることが本質的な問題としてあるのだろうと思います。

本来の図書館の目的は、人類の知の集積と保存、維持、流布のためにあるのであって、出版社が作りたい放題、売りたい放題の新刊本、週刊誌などを買い、集め、貸出することは、その本旨から離れた国民迎合のサービスになっているのだといえるしょう。

だから、本来は各地方自治体の都道府県、市区町村の中央図書館が、民衆史的資料して多様な雑誌を蒐集しておけば事足りるはずなのです。

勿論裁判などでも週刊誌記事が問題になることもあるので、貸出し分も購入しておかなければならないのでしょう。

こうするなら雑誌の類を僅かしか買わないですむし、貸出しても仕事で必要な者だけに貸すなどと制限して、本が傷まないようしていたら、少ない部数しか買わないで済むので、出版社は文句がないのでしょう?。

が、そうなれば現行のように全国の自自体がもつ何千の?何万?何十万?もの図書館が買わなくなるのですから、それらの出版会社は一辺に潰れることになるでしょう。

そこに大学や高校などの図書館や役所の待合室などの分も入れると、決して間違いではないことが理解してもらえるでしょう。

その一方、現行の図書館は、基本的な学術書や古い貴重本に金をかけられず、また現代モノでも「生きている」価値ある書籍を置いていない状態だったり、書庫にもないという状態になっていると思うのです。

全集物なども中央図書館にもない。「国立国会図書館に二部だけありますが、貴重本なので貸し出せません。」などということにもなってしまうのでしょう。

大学図書館でもそんな形骸化が始まって久しいのですから、唖然とする知識状態の社会になっているわけでしょう。

こうして本来の図書館とその知識の集積が疎かになって、またそうになっていても平気な社会になっているのでしょう。

また私たちはそのような知的水準の社会に生きているのだといえるわけです。

つまり虚構の社会に生きていることになっているのでしょう。



図書館という一例だけで、そこまで言うのは問題があるだろう、とか、決めつけだ、などという非難も聞こえて来そうです。

だがそれも虚構の社会に生きているからそう思い、考え違いを起こしているのです。

歴史的に積み上がった(諸々の時空にあった社会)の知というものを知らず、さらにそれらとの時空を超えた語らい(話し合い)、その喜びを知らず、それらの教えを知らず、反省を知らず、人というものと、ありとあらゆる社会と世界を知らないから、そう言えるのだと思うのです。

そこに示されているものが、本当の正眼で見える社会なのでしょう。


少し脇道に入るようですが、

話が切り替わり突然何を言おうとしてるのか、分かりづらいでしょうが、多くの方たちはきっと、自分は社会というものを知っていると思っていることでしょう。

そこでこれから私が多くの方たちは、本当の社会を知らないのだということを、論証してることにしましょう。

人というモノ(該当ブログにコメントを載せている方たちも)は前しか見えないでいるのでしょう。

後ろに振り返っても、いままで後ろだったものが前になり、結果やっぱり前しか見えていないのです。

これに嘘があるでしょうか。鏡がある。カメラがある、、、、と反論するでしょう。

そこで次に、人は一日の行動範囲しか見えていないし、見ていないのではないでしょうかと問いたいと思うのです。

そう言われれば、誰でも一日分の移動しかしていないので、これも嘘がないでしょう。

なのに自分は社会というものを知っている、と言っているわけです。

そうして鏡があっても、カメラがあっても、ビデオがあっても、一日のわずかな時間と範囲をそれらの機器で見て、全部を見たかのような、かつ知っているつもりになっているのではないでしょうか。

さらに多くの方たちが社会と呼んでいるものが、自分が一日で見たり経験した、あるいはそこから知識を得た、そういうものも社会の一部だと考えてみましょう。

そうして、新聞だとかに掲載されている1日分の様々な記事になっている物事も、社会の一部だとしましょう。

さらに、学問としての社会(経済学や法学や政治学や文化芸術学等などの社会の諸側面を捉えたもの)といものも、社会の姿の一部だとしましょう。

さらに宇宙と地球がなければ社会もなにも成立しないのですから、社会というものを見る上でもそれら自然や世界を無視はできないこととなりますので、そのことも社会という姿に不可分なものとしましょう。

さらに歴史学的にも、過去と未来をみて、その二つを突き合わせて現在(社会、世界)というものが見えてくるのですから、すぉのことも社会なるものの姿だとしましょう。

その他もありますが、縷々上げて説明しなくてもいいでしょうから結論を言えば。

多くの方たちが見ている「社会」なるものは、はたしてどのようなものでしょうか。

自身で考えて見るといいと思うのですがどうでしょうか。

私の言い方からすると、多くの方たちが社会だとしているもの、その中で自分は生きているの、自分の人生だ、等などとしているものは虚構ではないでしょうか。

日々の新聞やテレビなどに示されているものと、ある人が一日で動いた範囲を、社会の姿だと錯覚してはいないでしょうか。

じゃ、キ様はそれら全部を知っているとでも言うのか。自惚れるのも大概にしろ。

上から目線で教えを垂れつもりになりやがって、図ずうしいのにも限度があるだろう。と非難することでしょう。


まあそう言われていることは事実なので、また真理なので、素直に認めましょう。

が、しかし多くの方たちはやっぱり虚構世界をみていることには間違いないでしょが、私は社会を正眼で見ているし、人と社会をしっかりと見ているし、それを分かっています。

なぜならヒト(人類)は個人では何も見えないのです。正しく外界を捉えられないのです。

多くの方たちと私を分ける違いは、そのことを自覚しているか、そうでないかという点の違いなのです。

そのことも後に証明することにして。

今は過去の人がそのことをどう言っていたか、私たちに教えた一言について話させてください。

それは「無知の知」という言葉であり、それをここで示して置きたいと思います。

だから私も、私個人では、社会も人も、自分自身が何ものかも、知ることはできないのです。

そのように自分が全くの無知であることを完全に理解している。それを知っているということなのです。

これを知っているか知らないかの、さらに自覚があるかないかの、そのことが決定的な分岐点になるのです。

これを知っている者は正眼で社会と世界を見ることができるのです。

これが過去の哲人が教える「無知の知」の意味なのです。自分がどれ程(完全に)無知なのかを知るということなのです。


人、個人では何も見えないから、人々は手分けして自分が見て知ったことを情報として出し、それを学者という者に集め、そうして集積した経験と知識をもって、全体(世界)を見られるようにしているのです。

そうして経験と知識が人類史として積み上がって、その正眼の透明度を徐々に上げてきたのが、人類史であり、学術的な知なのです。

さらにそういった人類の知の遺産で、世界を正眼で見ることができるようになっているわけです。


さてそこで、図書館の本質は、そのようにして正眼で世界を見られるように、過去の人々が書物にして、現在人と、未来人のために、残した知識(経験も)の遺産を、集め、保存、維持、伝え広めるためにあるのです。

そのような役割を持ち、その責任を果たす、専門的場は図書館以外にあるでしょうか。

おそらく無いでしょう。

日々でる新聞、毎週出る週刊誌、月刊誌、年鑑、芸能人や底の浅い知識人や学者が出す書籍が、どれほどの意味(図書館が持っている本質的性質や目標などから比べて見て)があるのでしょうか。

雜誌の類も民俗学的民衆史としての蒐集には意味があるでしょうが、市民サービスのためにそこに費用や人員を費やして多部数購入、貸し出すことは、ほどほどにしなければならないのです。

こういう「程々にしなければ」なども、私が皆さんから非常識だとか嫌われたくないために、そのように言っているのですが、そのような物言いは実は嘘なのです。

図書館は人々に有益な情報と正眼を持ってもらうための機関であって、社会現象を自分勝手な意見で書き留めたり、さらに人間現象を観念的決め付けで書き留めた読み物を、市民国民に広めるためにあるもの(図書館)ではないからです。

そのような錯誤の図書館活動は虚構世界に市民国民を引き込む活動をしていることになってしまうのでしょう。

本人たちはその気はないし、うえのような「知」というものそのも、その知の集積と、歴史上の意義・責任などの自覚もないことでしょうから、図書館員たちがやっていることは人の命を疎かにすることなのだと、言ったとしても間違いではないのです。

しかしそれだけを言えば、「この非常識ジジイとか、クレーマーだ」とか恨まれるだけでしょうから、その本質を指摘しても仕方がなく、「多部数購入して貸し出すことは、ほどほどにしなければならな」いでしょうと言っているわけです。

やっとここまでの長さで、知と図書館と社会いうものなどの正常な姿を説明するところまできました。


2、の問題。

次に価値ある書籍と価値ない書籍、好き嫌いのレベルの書籍と、面白いつまらないというレベルの書籍などと言う場合の、問題(テーマ)についての話に移りましょう。

本を読む楽しみを知らない人が「どうでもいい本がある」とか言うのは間違いだ。

あるいは良い本だとか悪い本だとかを決める価値判断は人それぞれだから、悪い本だとか言うのは決め付けだろう。

さらに、良い悪いを言うことは、押し付けになるなどとする意見もあります。

そのような主張をしたり考え方をしている人々に対しても言いって置きたいことは、貴方がたは錯誤した虚構の世界に生きているからそのような意見になっているのではないか、ということです。

知を集積した書籍の歴史的意味と価値については、これまで説明したのでくりかえしません。

しかし、このような意味内容を換言すれば、それらは「価値判断の重要な一つ」でもあるということです。

人々の虚夢から目を覚ませるという重要な意味内容を持っている書物を、「面白い」と表現する人も居るだろうし、芸能人の「今だから明かす〜」とかの本の方が面白いという人もいるでしょう。

さらに科学的な本を読んで知らないことが沢山あって勉強になったという人もいるし、オカルト神秘主義の本を読んで、様々な問題や現象は不思議なものだと知ったとか、

科学とかで全部理解しょうだとか、理解できるなどと思い上がっている方が人間の傲慢だ、どん詰まりのところでは全てのことが分からないのだ(不可知論という)、

だからそんなことは考えないで面白可笑しく暮らせればそれでいいのだ(刹那主義)、それで人生を送れたら文句あるまい。(諦観主義)、などという価値観もあるだろう。

そのような様々な価値観で物事(ここでの話では本のこと)を判断するするときの定規として、それを価値基準とも言い、全ての人がこれら様々な価値基準で本などの選定をしていわけです。

このような価値観とか価値基準というものは、固定的なものとしてあるのではなく、高低の違いもあり遠近の違いもある。きれい汚い(衛生的な意味)もある。熱い冷たいもある。

深浅広遠、不道徳道徳的などという高度な意識(道徳観や倫理観)基準もある。有利不利、信義誠実、非理曲直などなど様々な価値観があります。

ようはこれらの価値観や価値基準には高低や低俗・高貴のなどの違いがあるのは事実だということです。

分かりやすく言えば、人が最初に覚える価値観と価値基準は、「好き嫌い」のそれで、幼児が生まれてから第一番に身に付ける価値観です。

そこから自分の身の回りに関係する価値観(アレとかソレの遠近)とか、先ほどの生活にまつわる様々な価値観へと発展し、抽象的な善悪や道徳観や倫理観、法的価値判断などといった価値観をもつように発展していのでしょう。

そうして発展して行き着くところが「普遍的価値」「普遍的価値基準」ということになるわけです。

日本の憲法でも人権や自由、幸せ希求権など「人類普遍の原理であり何人もこれを侵しては、、、侵すことはできない、、だったか、、、とあるのがそれです。

ですから、このような価値観と価値基準で本の善し悪しを判断することは可能なのです。

ただ価値観というものがそのようにしてあることを知らないで、自分が持つ主観的な価値観(自分だけがそう感じている面白いつまらないとかの)を唯一の価値基準にしている人々には、

その価値観や価値判断が発展することは知りようがないし、知らないのだから、つまらない本がいかに多いかも知ることができないわけです。

結局は虚構世界で生きていることを自覚なく知らない者と、それを知り正眼で世界を見て知っている者とでは

「社会」「ヒト」と「知・本」「価値基準」などなどという言葉の意味がまったく違うのですから、「面白とは」「美とは」といった話は噛み合わないのしょう。

時に、岸信介という年寄りの総理大臣が、「俺はそういうのは大ッ嫌いなんだよ」いうのを聞いて、私が少年時分のことながらアングリして口が閉まらなくなった時がありました。

最近では安倍首相がおなじように「好き嫌い」を言っていたことを思い出しました。

このような人々は、きっと自己主義、自己中心主義、主観主義の価値観で生きてきて、自己中が中心の価値基準になっているのでしょう。

そのような自己中の価値基準の上に、好き嫌いの価値判断が重なってあり、さらにその上に様々な価値観(道徳的だとか政治的な)が積み重なってあるのでしょう。

だからきっと客観主義とか普遍的価値、その基準ということは理解できないだろうし、理解していないことでしょう。



男と女の家政学 家事の分担と手伝いということ。

以下は、ある夫婦の相談に応えた内容。

相談事を縮めて言うと、夫が家事を手伝わず朝の通勤に出るときのゴミ捨てさえヤダといって手伝ってくれないという内容。



貴方が言いたいことわかります。

いま私は60大後半ですが、私も同じような問題で妻の方も私のほうも、苦しんだことがありました。そういった実際の経験のなかで学んだことは後に説明するとして、結論的には、

互を誤解しあい責め合わないでほしいということです。


あなた夫婦が互のことを理解できなくなったり、口論や喧嘩のようになる原因の、その奥の原因は夫婦どちらかの人格や責任、不誠実だとかいった問題ではないのです。

(夫や貴方の優しさの問題だとか、相手への思いやり、愛情などなど沢山の内面意識の問題があるのでしょうが、それら多くを話すことはできないので、ここでは「責任」という夫婦各自の内面意識を例にします)

夫婦どちらかの、責任感だとか責任というものの無自覚だとか、の問題でもなく、長時間労働や安月給(賃金)だとか、物価高だとかの社会的問題が原因なのです。

子どもがいれば育児を取り巻く社会的問題、保育園だとか病気病院だとか習い事だとか、時間に追われる忙しさだとか、それらから生まれる不安感(各自の内面の問題)だとか、社会的原因が精神的意識的な心理的な内面の問題にもなっているのです。

ようは夫婦各自の心持ちや考え方の問題といった内面意識でさえ、社会的な問題原因が夫婦生活に影響したり反映したりして起きているのです。

ですから互を責め合っても何の解決にも結び付かないのです。



そのことを理解しなければ互を傷付けあうだけの結果になってしまうでしょう。

とくにあなたの話で心配なのは、旦那さんの精神状態がかなり追い詰められているのではないか?ということです。

一般に会社の人間関係がストレスにならないなどという人は聞いたことありませんし、仕事のプレッシャーやストレス、自己責任論による責任追求だとか(これも数え上げれば沢山あるでしょう。)

そういった職場環境のなかで長時間労働している場合もあるのですから、そう電通女子社員過労自殺問題と同じ構図の会社がおおくあり、ギリギリのところで踏ん張っている方は、多くいるのです。

その実情を書いた遺書を残して自殺をしない限り、それらの実態は隠れたままで、統計上の数さえ不明なままで、そのような実態が在り続けているわけです。(子どもたちのいじめ自殺も同じこと)


そうして精神的に参ってくると、チョットした約束事、「チョッとしたことじゃないの、あなたの責任よ」という、そのわずかな「責任」という二文字だけでも、耐えられない気持ちにさせるのです。

風呂に入っても肌に受ける「温かさ」の刺激がストレスになり、風呂も入れなくなったりもします。

家族と夫婦の「予定」などということも、意識に「予定」を止め置いて決して忘れてはならないという一種の緊張状態になることも、負担になりいやになるのです。


ですから、肉体的にも精神的にもボロボロ(見た目は普通な状態です。男は犬や動物みたいに弱みを見せたくないのです)になっている夫に対して、このような家事を手伝ってもらうこと(問題)も、

夫婦の言い合い、喧嘩にならないように、淡々と話し合うように心がけること、「決まったことよ」などといって精神的に負荷をかけるような念押し、追い詰めにならないようにするべきでしょう。



いまはご主人の側のこととして話しましたが、あなたの職場環境はどうですか。


労働密度(仕事内容の密度が混んでいて、時間に追われている忙し度合いのこと)、人間関係(ギスギスしていませんか、出世競争の過酷さはどうですか{男性の場合は特にこのような要件もストレスや嫌避感を高める要因になる})女同士の陰険な策略ごとや意地悪いハカリゴトなどはどうですか。

それら夫婦のそれぞれの職場環境や仕事内容、労働密度などを話し合い理解し合えるものでしょうか。

いくら愛し合って結婚したからとか、仲がいいからといっても、
むずかしいのではないかと思うのです。

このような問題(社会的対外的問題)が夫婦互への誤解を生む原因になり、やがて互を理解できなくなり、愛が覚め、互が空気のような同居人というような関係に陥っていくようにもなります。

さらにその一方では、夫婦それぞれの職場の仕事では、仕事課題を協力して行う男女の仕事集団で、仕事完遂、成功の悦びを共有するような異性関係が出来たりすると、互を尊敬しあう男女関係が生まれたりもします。

このような話をするのも、そんな男女の尊敬感情も社会的な原因(この例の場合は会社という家庭の外のこと)からおきているのですよ、ということを伝えたいからです。

おおくは安月給である問題が夫婦間問題、家庭問題、出産・育児・教育問題、将来不安問題、マンション、一戸建て住宅、ローン問題等などを生んでいる中心的問題と言えるでしょう。

男女夫婦が互の個人人格の問題が原因かのような錯誤をあらため、喧嘩口調にならないように、さらに本当の喧嘩(DV)にならないようにしましょう。また喧嘩しないでください。


さて、あなたの話で心配事がもう一つあります。それを説明することは、家事という仕事が持つ細々とした性質によって微細に書き長い文章とならざるを得なくなるので、それを避け要点だけのことになります。

それは家事の分担と手伝いと分けて考えることの、大切さについてです。

分担というのは、家事を行う責任を分担するということであり、家事責任者が二人いることになるわけです。

これでは家事が混乱して(例えば食材を買うのは、半分は自分の責任だというので、夫婦で同じ食材を買ってきてしまうなどといった)しまうことになるのです。すべてが万事こういことが起こるわけです。


またこれでは主婦(女の別な顔)であることを半分だけやるということは、お母さんであることや、嫁であることを、妻であること、何よりも女であることを自分で無くしてしまうことにもなります。

さらに半分だけとは言え、こうして主婦でも母でも嫁でも女でもない生き物ということになってしまうことでもある訳です。

ですから、家事は分担してはいけません。

家事主体は女性の権限と責任として、采配権を持って、夫を「家事を手伝う人」にしなければならないのです。

実際の家事の量が夫のほうが多かったとしても、それはあくまで「夫の手伝い」であって家事分担であってはならないのです。

では夫は月給運搬人の役目だけの生き物か、というとそのことも勘違いしてはならないのです。

夫は対外的な、家庭や家族の顔、責任者、大きな買い物をする時の決定権者、家を買うとか、保険加入だとか、教育資金、決済だとかの責任者とするべきなのです。(古い戸籍法の問題も関係しますが)

それは夫の頭脳が妻より劣っていたとしても、家庭の全体の総責任者として一応そのように祭り上げていた方が次のような例のように、合理的であり理に叶っているいのです。

例えば男の子を育てる上でその方がいいでしょう。男の子が「お母さんみたいに強い人になりた〜い」などと言う男・人間に育てたくはないでしょう。

さらに女のを育てる場合のことも考えても、その逆の男らしくサバサバ、ハキハキ、細かいことに気がつかず、子どもの誕生日さえ忘れ、俺について来いと言わんばかりの人間に育てたくはないでしょう。

さらに次のような例ともなりかねません。
男親のそのような分担責任(家庭責任の分担であり、家事のではありません)を取り上げてしまえば、さらにそんな物は最初から無いのだ、としてしまえば、

夫が家庭に居る存在意味を無くならせることになるし、男と父親、夫として考えないし扱わないことも意味することにもなりますし、妻側が夫とも思っていなという意味ともなるのです。

ですから、その相手であらる自身もどのような立ち位置の人なのか不明にさせ、妻でもなくなり、夫婦関係を自ら壊すことにもなるのです。


またそうして男を夫扱いしていないのですから、夫自身は夫でもなく、夫(自分の)の居場所もなくなり、やがて自分を男扱いしてくれる女の所が自分の居場所とな場合も、起こりやすくなります。

妻にそうさせられてしまっていることになるわけです。

つまり男の家庭の分担(対外的責任と「家事」の分担責)責任を不明にすると、あるいは妻の側がそれを無視することは、家庭を崩壊させる結果になるのです。

女自らが家庭をこわしていることになるわけです。

社会教育(マスコミ情報など)や学校教育の問題によって、物事を深く考えられない女性たちが増えていますので、自らが家庭を壊すことをしていても、夫がダメな奴(人格攻撃をする)だからこうなってしまうのだと、さらに崩壊そ進めてしまっている場合が多くなっている訳です。

このような人格的な問題も社会的原因によって生み出されいるのです。


家庭や家事に関わることは日常的な些事な事柄ですから、またそこには男女の心理関係なども絡んであって、説明が難しくなり文章も長くなるのです。またそれを夫婦が話し合っても通じ会いずらい内容をもっているのです。


ご理解いただけたでしょうか。

社会のことや、会社と職場のことも夫婦で話し合ったり理解し合うことも難しく、家庭や家事についても夫婦で話し合い理解し合うことも難しい性質を持っているのだ、ということでもあるのです。

反対に、だからこそ互いが積極的に歩み(求め)合い、愛し合うことが必要になり、日々が二人の結びつき(絆)を強めさせるのか、あるいは希薄にさせてしまうのか、試されているのです。

恋人の喧嘩や、男女・夫婦の喧嘩が起こる原因と解決策とは (2)

恋人の喧嘩や、男女・夫婦の喧嘩が起こる原因と解決策とは

男女の現実生活では、どうしてもは喧嘩をするものでしょう。

最近恋人同士や男女や夫婦の喧嘩についての記事を書いた(他のサイトでも)こともあって、多くの方から夫婦喧嘩についての相談や質問をうけていますので、さらに喧嘩が拗れて離婚ともなったりしますので、続きの話をココでも話しておきます。


前回も男女が喧嘩を起こす原因について話しましたが、それは喧嘩が起こる原理として人間の意識や考え方の問題について、論理学と哲学の関係で説明しましたが、今回は実際生活のなかで喧嘩を起こす、その原因について話すことになります。

さて、男女が喧嘩になる原因はだいたい4つあるのだろう。

1、喧嘩原因でもっとも中心にあるのが、人間そのものの性質にあって、人間は生まれつき物事を正しく見られない、考えられない、という性質があるから男女が、あるいは人間同士が勘違いし合って喧嘩となる。

2、生活そのものが、男女を二手に分かれて(分業で)成り立つっているため、女性は手先や目先のことに目が奪われやすくなり、大きな見方や考え方ができずらくなっている、そのことが原因となっている。

女性は世界や国、社会、歴史といった、それら大きな全体を見たり、考えたりすることが苦手で、目先のことに目と意識が閉じ込められやすくなり(偏狭性*)、男女の見方考え方が違い喧嘩となる。

(*偏狭性は現代女性の救いようのない欠点なので添えるが、人間の爪先を見て人間だと解るというのも事実で半分正しいのだが、爪先自体が人間ではなく身体全体で人間なのだ。

しかし全身でも人間といえるが、それが裸の人間というのでは、それは人類史のサルと同じ段階の人間の姿で、現代の人間の姿とはいえないだろう。
洋服を着た人間が現代の人間の姿だろう。

従って洋服は社会で作られ世界中の経済関係で成り立つことだから、それら裸の人間の身の回りを装っている全体関係に現代の人間像がある。

それが「人間だ」といえる人間の正しい姿なのである。現代の女性は、こういった細部と全体の関係において、全体の姿の方に本質的な姿があることを自覚する必要があるだろう。

細部を知っているといい、人間や子どもを知っているのだと勘違いして開き直るような姿勢は、男女関係を結び、愛を作るものにはならないだろう。夫婦喧嘩がDVともなり、離婚ともなるので、話を添えた。)

3、給料が低い(低賃金)だとか、長期入院でお金がかかるだとか、あらゆる貧困という経済的理由が、男女夫婦の喧嘩の原因となっている。また精神的貧困を生むことにもなる、多くの原因である。

4、男女の意識が現代社会の枠組み(新旧の教えや決まりごとなど)に閉じ込められていること。
別な言葉で言えば、教育・マスコミなどが宣伝広報する「間違った考え方と意識に閉じ込められていることが原因といえる。

5、嫁姑や子どもなど家族関係が原因で、喧嘩の原因となる場合。

しかしそれらは上の4点が複雑に関係し合うので、実際的には家族関係そのものが原因となることは少ない。
嫁姑の人間関係でも積年の関係で誤解が誤解を生んで「犬猿の仲」ということになっているのだから、嫁や姑が原因そのものと言うわけではない。


だから、おおよ上の4つの原因で男女が生活すると喧嘩をするし、喧嘩が起こるのだ。

従って、それを起こさないためには、男女が正しく物事を見られ、正しく考えられ、正しく決断、正しく行動できるようにする以外に解決策はない。

正しい考えが出来ず考え方を間違えることで、考えが矛盾して悩みが苦悩となっていくし、男女の互いが誤解しあい双方が心を痛め、精神に負担を掛け会うことにもなる。やがて、男女どちらかが、あるいは双方が考えと精神の統合を失うことになりかねない。

だからそういう人たちが、特に女性が苦しまないで、また精神的な病気を直すためにも、さらに男女が仲良くするためにも、正しい見方、考え方、行動の仕方、を獲得することが必要不可欠なのだ。

これから時代が進むにつれ、間違った考えの人は必ず精神を病むこと(病院に行かないでも、そういう人も依存症や性的偏狭など)になる、そういう人類史の歴史段階なのだ。そう必然なのである。

結論。
だから現代男女が喧嘩をしても、大喧嘩、決定的な喧嘩、離婚などとならないためのコツは、
1、男女が上の3点を自覚すること。

2、男女の心身の性質(SEXでも)の違いから、女性は男を立てて主従関係を大切にすること。その素直さが、男女双方に必要なのだが特に女性には必要となる。

(たとえば男の側が悪くって喧嘩になった場合でも、男に頭を下げさせて、女がわが「私も悪かった」といわなければ、男の心の支えをくじくだけの女となり、男をだめにする下げマン、下げ女となる、そんな関係が出来上がるだけなのだ。)

3、男女が一緒に社会と世界のことを学んでいこうという姿勢や、社会の困難に立ち向かっていこうとする姿勢が大切で、これがないと生活(男女が分業分担した生活のため)年月を経るごとに、男女の考えと心と精神が別になり離れていくことになる。

このことを、お子さんたちにも教えてあげてほしい。必ず幸せになるはずだろ。
これを読み、覚えたたら、貴方もすこしだけいい女になれただろう。

震災・原発・道徳観の喪失・私たちの救いはどのようにあるのだろうか。救いの声を聞け。

私たちの救いはどのようにあるのだろうか。救いの声を聞け。


最近の地震災害と、原発事故、心を痛めたり精神的に参っている人たちがいるだろう。
また、その後の政治と行政のや東電とマスコミなどの対応に、さらにそれらの結果として起きている「買い占め問題」や「風評被害なるもの問題」などについても、神経を集中させられたり、興奮させられたり、心を痛めたり精神的に参っている人たちがふえていると聞く。



また私のところにも、それを「どう考えるか」「自分や人々はどうしたらいいのか」など相談や質問を受けている。

そこで、少し難しい話になるが、皆さんにもお伝えしたい。



私たちはというより私たち個人は、自分を解らないものだ。
それは「人間とは何か」ということを知らないからで、その「人間像」と自分がどう違うのかを解らず、だから自分がどういう人間なのかが解らないし、自分を解らないものなのだ。
世の中の全ての物事は、比べないと解らないし、比べるモノがあって解るということもあるからだ。



つまり私たち各個人は、自分を「人間だ」と言うのだけど、その人間を知らないために自分(人間だから)も解らず、他の人(人間)もを解らず、そうい各自が「自分らしさ」「女らしさ」「子どもらしさ」などなどというような言葉を使い、それらを解ったつもりで、本当は解らずに、悩んだり、議論したり、口論したりしているだろう。



解っていれば、議論なんかしないし、口論もしないし、悩んだり、病気になったりしないはずだろう。



また実際に、これを読む皆さんや、貴女のお子さんや、多くの人たちも、そういった人間関係(「人間」の関係)のことで悩んで、答えが見るからずに、ストレスを溜めたり、心を傷つけたり、精神が参ってしまっているだろ。



今回の地震災害・原発事故の問題でも、さらにその後の買い占め問題でも、「風評被害」でも、多くの人たちが、真剣に怒ったり心を痛めているのだけれど、そういった被害を受けた人間も、買い占めなど不道徳をやる人間も、それら見て関心や神経を集中させ、興奮したり、悲しんだり怒ったりする側の人間も、「人間」を解っていないのだ。解っていないから、議論し、口論もし、悩み、病気になったりしてるだろ。



だから、私はここで「人間とはどういうものか」「人間の姿」など、「人間」を言ってるわけだ。私が示し、説いていることは、そういった「事実の、実際の、「人間の姿」なのだ。


そうして皆さん、いいや、すべての人間は、つまり貴女もお子さんたちも、人間は物事を正しく見たり、正しく考えたり、正しく決断したり、正しく行為や行動したり、活動したり仕事をしたり、正しく生きる活動(生活)したり出来ないのだと、理解願いたい。

さらに、そうして判断できないのだけど、さらに実際に判断できないからこそ、これまでの成功体験を習慣的に繰り返して、事物を見たり、考えたり、決断したり、行為・活動・仕事・生活(生きる活動)などをしているだけなのだ。


これを読む貴女も、人間や物事を正しく考えられないのだ、考えられないから実際に悩んでいるだろ。

解らないのに、そうして解らないからこそ、「買い占めしている人間」「風評被害」などを起こしている者を、怒ったり、それを電脳世界で人々に伝搬させているのだが、それは間違いであって、いけないことをしているのだ。

「人間」として正しい事ではないのだ。


さらに貴女自身が、それで心を痛め、怒り、悩み、傷ついているし、精神的に参って、そいう状態に閉じ込められて、同じ事を繰り返しているだろう。またそれらを繰り返しているのは事実だろ。



貴女だけでなく、人間は、全ての人間は、この世の中の全てを正しく見たり、正しく考えられないんだから、正しく決断し、正しく行為出来ないのだから、だからこそ習慣的に私の言うことを気きなさいと伝えているのだ。

今まで通り、政治家や書物(学者)やマスコミや宗教者の言うことを聞いていても、事実がそうあるように、人間が生み出す問題の全ての問題の解決は、今まで通りないのだ。



だから、世界の崩壊の日は刻々と近づいている。




参考資料

youtube広瀬隆広河隆一福島原発現地報告と『原発震災』の真実」 http://www.youtube.com/watch?v=3UXtyqdGgmI
youtube小出裕章「隠される原子力」【大切な人に伝えてください】小出裕章さん『隠される原子力http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk